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Chapter 1 - Victoria

 鈍色の雲が太陽の光を遮っている。そのせいかどことなく重い空気が満ちているように感じた。時折建物の隙間を吹き抜けていく風もそれを解消してはくれない。整備されたばかりの水路からせせらぎが聞こえるばかりで、とても静かだった。幅のある水路のために、面した家々が水面に映りこんでいる。

ちゃぽん、と特徴的な音がした。魚が跳ねたのだろうか。石造りの橋を渡っていた子どもがそれを聞きとったようで、興味津々という表情で駆け下りてくる。おそるおそる水路に近付こうとしたその肩に、誰かが触れた。

「うわっ」

「水路に近付くと危ないですよ」

 子どもを引き留めたのは、若葉色の祭服に身を包んだ美しい女性だった。右手に彼女の身長ほどもあるロッドを携え、柔らかく微笑んでいる。

「このあたりは滑りますから。万が一水路に落ちてしまっては大変です」

 穏やかではあるが、芯のある声だった。そのせいか、どこか有無を言わせない強さも感じる。子どもは水路に近付くのをやめ、彼女に背を向けて走り出した。身体の割に大きな荷物。学校に行くのだろうか。小さな背中が表通りへ消えていくのを見届け、彼女――ビクトリアは振り返った。水はゆったりと流れているように見える。しかし彼女の目には他の“何か”も映っていた。

 鼻先を影が掠め周囲を飛行する。翼のようなものを持つその影は、虫と呼ぶにはあまりにも大きく、歪な形をしていた。ひとつしかない赤い瞳が、こちらを睨むように見ている。更に水路の端からちらちらと脚が見えた。距離を取ると、数本の触手を動かしながら、緩慢な動きで何かが這い上がってくる。

「2体ですか」

 実のところ、この奇怪な見てくれをしたものは、先ほど子どもが水路に近付いたときから存在していた。毒牙にかける瞬間を待ちわびていたわけだが、もちろん子ども自身は気付いていない。理由は単純で、見えていなかったからだ。

 これをビクトリアたちは“怪異”と呼ぶ。人が持つ負の感情が集積され、実害を及ぼすようになった存在。飛行している怪異は水属性――この場合だと、スリップ事故を発生させうる。軟体動物のような怪異もまた転落事故を引き起こすとされており、これらの怪異が人の往来がある場所にいるのは非常に危険だ。ビクトリアが声をかけなければ、子どもは滑って水路に落ちていただろう。そのまま溺死していた可能性も高い。しかし、これほどまでに危険な存在を、ほとんどの人間は実害というかたちでしか認識することができない。怪異そのものを見ることはできず、当然、迫る危機に気付くこともできない。

 だからビクトリアは戦う。数少ない認識できる者、そして、対抗する力を持つ者――怪異専門家として。

若くしてウエストミンスター寺院の主席神官を務めるビクトリアは、この度カンタベリー大主教からの命を受け討伐任務にあたっていた。悪魔祓いの力を持つことができたのは、神が自身に課した試練であり、自身の心がそれを成す強さを持ちうるから……彼女はそう考える。与えられた力は民を守り、そして導くためにあるのだ。悪魔たちがもたらす災禍の根を絶つことは、ビクトリアの使命でもあった。当然怪異を野放しにするわけにはいかない。

「……祓います」

 わずかに目を伏せ、自身の信じる神に祈る。怪異は人々の恐れ、妬み、恨みといった負の感情からできている。それを生み出すのが人間の弱さであるのなら、それらは人の心を映す鏡ともいえる。凪いだ心で向き合い、口を開いた。

「――われらを試みに引き給わざれ、われらを悪より救い給え」

 祈りの言葉を唱えると、ビクトリアに迫っていた怪異たちの動きが止まった。それどころか飛行していた怪異は危なっかしく地面に落下しかけ、軟体動物型の怪異も触手を縮めて苦しみ始める。信仰心を力に変えて怪異を弱らせたビクトリアは、十字架を模したロッドの杖先を石畳に打ち付けた。力を込めて支えると、次は蒐集にかかる。十分弱体化していたそれらに抵抗する力は残っていなかったようで、ロッドに吸い込まれるようにして消えた。

「……主よ、此度もお守りくださり感謝いたします」

 危なげなく怪異を退け、ビクトリアはほっと息を吐いた。怪我はなく、体力も残っているが、精神が大きく疲弊している。怪異の蒐集には多大な精神力を要するため、2体をまとめて相手した以上こうなるのは必然だった。

 ――けれども、これでアンリアルに挑む準備は整いました。

 怪異の危険から人々を守ることも重要だが、アンリアルの討伐こそ本命だ。怪異専門家でなくとも認識しうる、危険度の極めて高い怪異は特別指定怪異――アンリアルズと呼ばれる。潜む際には姿を消しているが、いざ猛威を振るうときには実体化し、全ての人間が認識できるようになるのだ。怪異とは一線を画した強靭さをもち、及ぼす被害も比較にならない。刃物や銃といった物理攻撃は通用せず、怪異専門家が持つ特殊な方法でのみ消滅させることができる。ヨーロッパ各国に出現したアンリアルを全て討伐すること。それがビクトリアたち怪異専門家の最終目的だ。ビクトリアはフランスにアンリアルがいるという情報を得て、イギリスからこの町までやってきていた。

 とはいえ、今は精神力をかなり消費してしまっている状態だ。強大な敵であるアンリアルに挑む前に、少し休息を挟むべきだろう。寄宿先である教会に向かおうとした瞬間だった。

「――っ!?」

 氷水を浴びせられたかのように、瞬間的に筋肉が硬直する。緩んでいた神経が張りつめ、背筋を冷たい汗が伝った。一瞬呼吸を忘れるほどの危機感を覚えて振り返る。

 水面は穏やかだ。せせらぎが聞こえ、家々が映りこみ、乱れることなく流れている。しかし、そこから目が離せなかった。離してはならないと、怪異専門家としての本能が告げていた。五感は「何もない」と認識しているが、それ以外の何かが肉薄するおぞましい何かを感知している。ビクトリアは兆候のひとつも見逃すまいと、感覚を研ぎ澄ませてそこに立っていた。

 数秒か、数分か。過度な集中のせいで、時間の感覚も曖昧だった。最初の変化は微細なもの。流れに逆らうような水面の動きが見えたことだ。喉の奥がぐっと詰まる。次第に水が黒く濁り、青白い光を放つ何かが水底からせり上がってきた。やがて水しぶきを上げ、その正体があらわになる。

鎧のような黒い外殻はビクトリアの背丈を優に超えていた。身体の構造こそ人間と似ているが、異質である角と爪、顔の窪みに浮かぶ瞳が不気味に輝いている。水が濁って見えたのは、この怪物の体色のせいだった。呼吸をしているかのように、口元にちろちろと炎が踊っている。感じる力もこれまで相まみえてきた怪異とは比にならない。

「……アンリアル!」

 ルアンの伝説に起源をもつ悪魔、ガルグイユ。水路から這い上がったそれは、傍らにいるビクトリアに気付いたようで、ぐりんと光る瞳を向けてきた。

 どうするか、など、答えは決まっている。精神力に不安はあるが、ガルグイユを市街地に行かせるわけにはいかなかった。アンリアルがもたらす被害は甚大だ。町の人々を守るために、自らの信じる神の名において戦わなければならない。

 ――主よ、どうか見守っていてください。

 見開かれた目には、何の恐れも不安もない。真っすぐにガルグイユを見据え、ロッドを向けた。

「父と子と精霊の御名によりて、この悪霊を祓う力を与え給え」

 ビクトリアが唱えた瞬間、ロッドの先端から稲妻のような閃光が走る。数日前から蒐集した怪異たちを、自らの武器を介し、エネルギーとして放出する。アンリアルの討伐に怪異の蒐集が欠かせないのはこのためだ。激しく音を立てながら、白い光がガルグイユの右肩に突き刺さった。

「……」

 どれほどの傷を与えられるかは未知数だ。ビクトリアはロッドを突き出したまま、ガルグイユの様子を観察する。反動でわずかに仰け反っていたが、すぐに姿勢を戻してしまう。どうやらあまり効いていないようだ。右腕を上げたのを見て、軽やかな足さばきで後方に跳ぶ。次の瞬間には大きな音がして、石畳に顔ほどもある手のひらが石畳に叩きつけられていた。爪によって削られたのであろう、くっきりとした5本の鋭い直線。あんな攻撃、一度でも当たれば無事ではすまない。

 爪による攻撃が届かない場所にまで後退し、ビクトリアは考えを巡らせる。とにかく攻撃を当てなければ――

「きゃっ!」

 距離を詰めてくるかと思いきや、ガルグイユは口元から炎を噴き出した。後ろに進んでいたのを、足に力をこめることで強引に向きを変える。脇をすり抜ける熱波に息を呑んだ。

 ビクトリアのみを狙った攻撃だったようで、幸い家屋や街路樹に燃え広がってはいない。しかし足元の雑草は焦げ付いており、どれほどの温度だったかは想像に難くなかった。町に出ればどのような被害が出るのかも。火を噴かせないためにも、ビクトリアは自らガルグイユに近付いた。迫る敵を視認したためか、ガルグイユは左腕を後ろに引いた。引き絞られた弓から矢が放たれるように、力のこもった拳がビクトリアに迫る。あわや直撃する瞬間、屈んでそれを回避する。そのまま水路とガルグイユの間にあるわずかな空間を抜けて、背後を取った。

「栄光は、父と子と精霊に」

 再びロッドを向け、閃光を放つ。背中に直撃して前のめりになるが、片脚をついてすぐに持ち直してしまう。

「っ、これでも……」

やっと見出した隙に打ち込んだ攻撃でも、致命傷を与えるには至らない。悔しさを覚えながらも、再度祈りをささげるために口を開いた。しかしガルグイユは巨躯をもつとは思えないほどの速さで振り返り、ビクトリアを見下ろす。殺気を感じて再び距離を取ると、やはり爪が繰り出された。体勢を立て直し攻撃のタイミングを計ろうとするが、今度はすぐに追撃が飛んできた。慌てて左に身を引いて回避する。ガルグイユが本気を出し始めたのか、怒りに触れたのかは分からない。ただ、攻撃が明らかに苛烈なものへと変わっていた。

「くっ……!」

爪に当たらないよう、ガルグイユの動きを見極めるのに手いっぱいだ。とても力を溜めて攻撃をする余裕がない。しかもビクトリアは怪異の蒐集で大きく精神力を削っていた。その状況でアンリアルとの戦闘に入ったことは、徐々に彼女を蝕んでいく。精神の疲弊は感覚を鈍らせ、観察眼に影響を及ぼしていく。すると回避が遅れ始め、無理に身体を動かすことで体力の消耗も激しくなる。

「はぁ……はぁ……」

 このままではガルグイユを抑えきれない。それどころか、自分が倒れてしまう可能性もある。何が最善か、何が最適か。冷静さを損なうことのないビクトリアは懸命に考えていた。

「あれは……!?」

 視界の端にとあるものを認めたために、一度積み重ねた考えは吹き飛んでしまった。重い脚を叱咤し、ビクトリアは走り出す。背後を爪が掠めたのを感じた。路地の隙間からこちらを見る小さな影に駆け寄り、乱れた呼吸を落ち着けながら、なるべく穏やかな声で話しだす。

「ボク、どうしてこんなところにいるの? お母さんとはぐれちゃったの?」

 外套を被った人影は、先ほど助けた子どもとは別の子のようだ。体格とあどけない顔つきからして、少年だろうか。大きな目を見開き、ビクトリアとその背後をちらちらと見ている。

 ビクトリアもそちらに目を向ければ、ガルグイユが体勢を立て直していた。動揺させないように柔らかな声を心がけていたが、もうあまり時間がない。

「ここは危ないから今すぐに逃げなさい!」

少し鋭い口調で言うも、やはり反応が薄い。困惑したようにビクトリアを見つめて固まっている。ガルグイユはまだ実体化していないが、敏感な子どもがしばしば不穏さを察知することは珍しくない。きっとただならぬ気配に圧倒され、口もきけなくなっているのだろう。

「いいから早く――っ!」

 少年を気にかけている間に、ガルグイユは音もなく迫っていた。ビクトリアの生み出した大きな隙であることを理解していたようで、慎重に、確実に攻撃を当てられる間合いにまで入りこんでいる。こうなってしまえば、ビクトリアもただの獲物だ。

 ――避けられない!

 ビクトリアは少年に覆いかぶさる。ただ目の前の命を守ることに必死だった。せめて自分の手の届く範囲のものは、命をかけて守らなければならない。狙いすまして放たれる致命の一撃を、緊張しながら待つことしかできなかった。伸ばされた爪を目前にし、少年が口を開く。

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Chapter 2 - Jackey

 10月のスウェーデンは緩やかに冬へと移ろっていた。風には徐々に冷たさが溶けこみ、肌寒く感じる日が増えている。ここのところ日が出ている時間も短くなってきているようだ。一方で長くなる夜を持て余しているのか、昨晩の酒場はずいぶん盛り上がっていた。余韻すら残していない空間が、少し寂しく感じる。

 ジャッキーはあくびをしながら階段を降りてきた。朝の空気に眠気を覚ましてもらい、カウンター席に座る。寝ぐせの残る明るいオレンジ色の髪を撫でつけていると、マスターが驚いた顔でやってきた。

「一番乗りとは珍しい。随分早いじゃないか」

「起こされたんだよ……隣のおじさんうるさくてさ」

二階の安宿は壁が薄く、隣人のいびきでたたき起こされてしまった。もう一度眠るのも難しいし、やるべきことはあるので起きることにしたのだ。マスターはケトルにたっぷりの水を注ぐと火にかけた。

「ご注文は?」

「んーと……トースト……いや、やっぱりチーズサンドにしよう。ホットサンドにしてほしいな。あとはコーヒー」

「はいよ」

 言葉通り今日最初に来た客だ。話し相手もいないため、キッチンでパンを焼く音だけが響く。先に温められていたケトルが白い煙を噴き出し、コーヒー豆を挽く音も加わった。まだ寝ぼけているせいか、ジャッキーはぼんやりとそれを聞いて待つ。この店が仕入れている浅煎りの豆は彼女のお気に入りだ。タイミングよくホットサンドも完成したようで、同時に運ばれてくる。

「ありがとうマスター。あれ? サラダなんて頼んだかな」

「サービスだよ。カールソンさんが持ってきてくれた。直送市でも売り切れなかった分を格安で譲ってくれたのさ。もちろん早い者勝ちだ」

「へえ」

 ジャッキーは顎に手を当てて、ドレッシングのかけられたサラダを見つめる。小さなサラダボウルに詰められた野菜の量なんてたかが知れているが、小さな幸運はジャッキーの目を覚まさせるに十分だった。

 ――今日のアタシはツイてるかもね。

 口角を吊り上げ、サラダを平らげる。早起きも悪くない。ホットサンドをかじっていると、二人目の客がやってきて、ジャッキーを見てやはり驚いた顔をした。

「おはようさん、ジャッキー。今日は早いじゃないか」

「そういう日もあるよ」

「珍しいこともあるもんだ……それにしてもすごい荷物だな」

 男が視線を向けたのは、ジャッキーの足元に置かれた大きな機械だった。頑丈な革のベルトが取り付けられたそれは、彼女の上半身ほどの大きさがある。見た目通りの重量があり、確かに、すごい荷物と形容されても仕方ない。

「荷物とは失礼だね、アタシの仕事仲間を」

「仕事、ね。なんだっけ、お化け退治だっけか」

「お化けじゃなくて怪異。アタシの仕事は怪異専門家だってば」

 溶けたチーズを器用に挟み直しながら、ジャッキーは返す。彼女が持っている大がかりな機械は、怪異を蒐集するのに必要なものだった。先端は大きな銃口のようなデザイン。そこから長いホースが伸び、アンテナの立つ箱へと繋がっている。怪異と口にすると、男はどことなく疑念を孕んだ顔つきになった。その反応も何ら否定しない。一般人には怪異を視認すらできないのだから。そして――怪異専門家であるにも関わらず、それはジャッキーも同じだった。機械の力を借りなければ、蒐集はおろか、怪異を見つけることすらできないのだ。

「でも、あんただって霊能力者ってわけじゃないだろう? それでいて稼ぎもいいって聞くぜ、俺にもできそうだし貸してくれよ」

「ダメ。そもそもこれは、父さんに協力してもらって、アタシが一から作った機械だからね。アタシ以外には使いこなせないよ」

「そんなこと言わずにさ。どんな仕組みなんだ?」

 見えないものを信じることは難しい。見えずとも怪異を心から信じる人間もいれば、見えないからこそ全く信じない人間もいる。ジャッキーは怪異という存在を、いちはやく科学的な視点で見ることができた人物だった。存在するけど見えないものがどれほど多いか、ジャッキーはよく分かっている。本来捉えることすらできない怪異を彼女の手の届く範囲まで引っ張ってこられたのは、間違いなくジャッキーの努力、そして天性の才能の賜物だろう。食い下がる男に向けて、一応、先端部分を手にとって見せてやる。

「怪異がバチバチしたらここがバーッてなるんだよね、その時にここを押せばびゅーってなるから……」

 ジャッキーが自身の自慢の逸品を紹介し始めたところで、あれほどしつこく聞いていた男の顔色が変わる。怪異分析と蒐集のメカニズムの説明をし終える前に、「やっぱりもういい」と引いてしまった。当然ジャッキーは一から十まで理解してこの機械をくみ上げているわけだが、直感的なひらめきを得意とする彼女には、このような説明は甚だ苦手なようだ。彼はお手上げとでもいうように手をひらひらさせている。もう関心がないのなら仕方ない。ジャッキーは最後の一口を飲みこむと、マスターに皿を返しながら尋ねた。

「マスター、仕事の紹介をしてよ」

「はいよ」

 大荷物と共に降りて来たのにはもちろん理由がある。朝食を食べ終わり次第、すぐにでも仕事に向かいたかったからだ。それが彼女のやるべきこと。依頼を受け、金を稼ぎ、旅費を貯める。この国にアンリアルが出現しているという情報は得ているので、そのための準備が必要だ。

 マスターは慣れた仕草で帳簿を取り出す。この地域では彼が町人の困りごとをまとめ、“依頼”というかたちで紹介していた。カウンターに帳簿を置き、いくつかあるうちの1つを指で示す。

「このあたりなんてどうだ?」

「……」

 そこには仕事らしく依頼主、緊急度、内容、そして報酬がきっちりと書き連ねられている。しかし、真っ先にジャッキーが確認したのは報酬の欄だった。銀貨3枚と書かれている。

「モーデュソンさんからの依頼だよ、内容は――」

「決めた、これにする!」

 彼女が笑顔で指さしたのは、彼が紹介した依頼……の、ひとつ下に書かれたものだった。依頼主は同じだが、報酬が銀貨5枚となっている。マスターは明らかに呆れた顔をした。

「あんたにゃまだ危険だ」

「大丈夫だって! 今日のアタシはツイてるしさ」

 胸を張ってそう答えると、帳簿からするりと依頼書を抜き取った。確かに銀貨5枚と書いてある。そもそも怪異を蒐集するのも、アンリアルズを討伐することにしたのも、全てはそれに発生する報酬のため。3より5が大きい、ただそれだけの話だ。ジャッキーを引き留めることは諦めたようで、マスターは肩をすくめる。

「くれぐれも気を付けておくれよ。お得意さんに怪我されちゃ、商売あがったりだ」

 

 

 

 集合場所に向かう途中に依頼内容を確認する。「塔の上の風見鶏が壊れたので直してほしい」という内容だった。ものの仕組みを理解する頭脳と、器用な指先。そのどちらをも持つジャッキーにとって造作もない依頼だ。

「モーデュソンさん、終わったよ!」

 高所での作業をものともせず、手際よくすませたジャッキーは屋根伝いに塔を降りた。

――これで銀貨を5枚もらえるなんて、やっぱツイてるね。

「おお、ありがとう」

「こんくらい簡単だよ」

 無事に地面まで辿り着くと、ジャッキーは歯を見せて笑った。

「アタシに任せておけば、あーんなに立派な……」

先ほどまで自分が頂上にいた塔を見上げ、取り付けたばかりの風見鶏を確認する。黒い雄鶏は胸を張り、堂々と風を受け、あちらこちらを向いていた。計画通りに風見鶏が機能するのを眺め満足していたのも束の間、しばらく観察を続けていたジャッキーの表情が少しずつ変わっていく。最後にはしかめっ面になって、考え事をするように顎に手を当てていた。

「どうかしたのかい?」

「ん? いや……」

 ちょっと引っ掛かることが……そう言いかけたジャッキーの言葉を攫うように、突風が吹きつけてきた。分厚い空気の壁が顔にはりついたようになり、一瞬呼吸ができなくなるほどだ。

「っ、モーデュソンさん!」

 それでも注視を続けていたため、風見鶏が壊れる瞬間を見ることができた。風が弱まったらすぐに走り出し、モーデュソンの腕を引っ張って塔から離す。鈍い音を立てて風見鶏が地面に刺さり、からからと情けない音を立てていた。根元はもぎ取られたように歪んでいて、とても金属でできているとは思えない見てくれになっている。

「お、おぉ……ジャッキー、助かったよ」

「怪我がなくてよかったよ」

「しかし、あんたでもダメだったか……ここのところ、風見鶏だの屋根だの、風で吹き飛ばされる事故が多くてね……」

「風で……?」

 モーデュソンの言葉を反芻し、ジャッキーは再度考え込む。しかし、先ほどよりは表情は柔らかく、どちらかといえば、答えに近付いたことを喜ぶような顔つきだった。もう一度彼に笑いかける。

「それこそ、アタシの出番かもしれないね」

 

 

 

 ジャッキーは持ってきた機械を背負い直し、ベルトをしっかり留めた。大きく腕を回して問題なく動けるか確認した後、額に上げていたゴーグルを装着する。スイッチを押すと起動音が響き、視界にノイズが混ざり始めた。

「さーて、いるのは分かってるんだよ」

 彼女には霊能力のような特別なものはなく、神がかり的な力もない。それでも怪異専門家として仕事ができているのは、科学の素質に恵まれ、機械を作ることができたからだ。ゴーグルを付けることで、ジャッキーは本来見ることのできない、怪異の姿を捉えることができる。

 ジャッキーは既に、この件に関して怪異が関係しているという予想を立てていた。恐らくは風の力を持つ怪異だろうということまであたりが付いている。そもそも、風見鶏があちらこちらを向くことがおかしいのだ。気候的にほとんど西風ばかり吹くはずなのに、しばらく見つめていても振り回されるように風向きが変わっていた。屋根が飛ぶほどの風が頻繁に吹き、風見鶏があんな壊れ方をするというのも、超自然的な現象だ。ほぼ間違いなく怪異が原因だろう。

「いた……! うわ、デカいな!」

 すぐに発見できたのは、その大きさも理由のひとつだろう。今まで怪異を蒐集してきたが、その中ではかなり大きい。動揺しなかったといえば嘘になるが、すぐに持ち直す。これほどの怪異であれば、アンリアルと戦うときの大きな力になるからだ。何より、今日の自分はツイている。これは危機ではなく、好機に違いない。

「よし、アタシが蒐集してやろうじゃないか!」

 ジャッキーは背負っていた機械も起動する。ごうん、と大きな音を立て、モータが唸り始めた。持っている機械からぱちぱちと音が聞こえるのが、準備完了の合図だ。攻撃されるより早く、ジャッキーは先端を怪異に向けた。

「食らいな!」

 スイッチを押すと、ゴーグルがなければ視認できない電波が怪異に向けて発射された。町を照らし始めた街灯と同じエネルギーを使っていると説明したところで、きっと誰も信じないだろう。ジャッキーの機械が発生させる電波はそれほどまでの高エネルギーを有し、高い攻撃力を得ていた。真っすぐに飛んでいった電波は怪異を包むように走り、数秒の内に消滅する。

「どうだい、アタシの発明品の力は! もう動けなくなっても仕方な……うわぁっ!」

 確かに電波は直撃したはずだった。しかし、怪異は何事もなかったかのように腕を振るい、突風を発生させる。立っているのもやっとなくらいだ。

 ――効いてない! もしかして波長が合ってないのか?

 ジャッキーの機械は生成した電波をエネルギーとして飛ばし、怪異を弱らせることができる代物だ。しかしその一方、波長の調整は全て人力で行わなければならない。無限にある波長から、相対する怪異に対しどれが最適かを選ぶのは、ジャッキー自身の仕事なのだ。風にまつわる力をもち、これほどの規模の危害を及ぼす怪異は初めて遭遇する。一秒でも早く最適解に辿り着かなければ、怪異の力でこちらが怪我をしてしまうだろう。

「やったね、このっ……くっ!」

 再度狙いを定めようとしても、ジャッキーを吹き飛ばすくらいの勢いで風が吹いてしまう。波長を見つけるには観察が欠かせないというのに、対象をじっくり見ることさえ叶わなかった。極力丈夫に作ってあるとはいえ、人の手で作られたものだ。風に晒され続けて機械が故障したら目も当てられない。吹きすさぶ風の中を這いつくばるように移動し、何とか大岩の影へと避難した。エネルギーを溜めつつ、風が弱まるのを待つ。

 ――参ったね。

怪異をせめて数秒間観察し、電波の調節をする。その上、最大出力で電波をぶつけられるよう、じっくり狙いを定めなければならない。どのようにすれば、どう動けば怪異本体に近付けるだろうか――

「にゃあ」

「ん?」

 風の奔流の中でも、やけにはっきりと声が聞こえる。見ればジャッキーの足元にぼさぼさの毛を持った灰色の猫がいた。これほど近い位置にいれば、さすがに鳴き声も聞こえるだろう。

「お前……どこかで」

 そして身体を屈め、猫に顔を近づけた瞬間だった。突如風向きが変わり、真横から吹き付けてくる。それに合わせて幹からへし折れた大木が、ジャッキーの頭すれすれを通り抜けていった。

「へ……?」

 肝が冷えるとはこのことだ。死んでいたかもしれないという事実に、さすがのジャッキーも硬直する。猫は足元をするりと抜けて、岩をぐるりと回るようにどこかへ行ってしまった。

「あっ! ちょっと……えっ?」

 猫を追いかけて飛び出すと、目の前に怪異がいた。しかし、あの本能的恐怖を掻き立てるような赤い瞳が見えない。つまりこれは……背後だ。

それに気付いた瞬間、猫を追っていたときのような焦りは消えていた。極限まで集中して対象を観察し、波長をじっくりと合わせる。10秒もしないうちに怪異が振り返ったのだが、そんなことはもはや関係ないことだった。

「食らえっ」

 スイッチを押し、電波を発生させる。今度は明らかに動きが鈍くなり、風も吹き止んだ。すかさずモードを切り替えて、怪異を吸い込みにかかる。多少抵抗する様子はあったが、無事に背中の機械へと消えていった。

「よし、蒐集完了! あとは……」

 怪異を蒐集し、風見鶏を直しに向かうジャッキーは、猫のことなどすっかり忘れていた。

 

 

 

 銀貨を投げながら上機嫌で宿に戻ってきたジャッキーは、真っ先にカウンターに座った。帰り道吹いていた風はとても穏やかで、鼻歌をうたうにはぴったりだ。マスターは彼女が5枚もの銀貨を握っているのを見て、「ほう」と声を上げた。

「危ない場面もあったんだけどね! その時猫が来て助けてくれたのさ。そういえばどこ行っちゃったんだろうねぇ……ま、達者でやってるだろうよ。おまけに怪異の蒐集もできて、アンリアルと戦う準備が整った。アタシにはやっぱり幸運の女神様がついてるね!」

 アンリアルを討伐できれば、より多くの報酬を手に入れることができる。金を稼ぐことが目的のジャッキーにとって願ってもないことだ。

「支度ができ次第出発するよ、また寄るからね、マスター!」

 あわただしく去っていくジャッキーの背中を見送り、マスターはひとつ、大きなため息を吐く。夜の楽しい時間が始まる前ということもあり、食堂には彼以外誰もいない。

「……幸運の女神様ね。そいつのツラが、こんな髭もじゃだなんてなぁ」

 彼の言葉を理解しているのか、いないのか。ぼさぼさの毛をつくろいながら、カウンターの下で灰色の猫が大きなあくびをした。

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Chapter 3 - Franziska

 「おはようございます、フランツィスカ女史。さあ、こちらへ」

 門衛はボクの姿を見つけるといかめしい表情のまま一礼し、門を開いてくれた。脇にある一対の天使像がボクを迎え入れる。由緒正しきドイツの貴族、ベルメール家の守護を引き受けるには相応しいかもしれない。本音を言えば、悪魔のモチーフの像がもっと増えたっていいと思うのだけれどね。

 ボクはゲッティンゲン大学の研究室に所属している。一昨年――16歳のときに同大学の博士課程を卒業し、そのまま研究室に入った。もちろんガチョウ娘リーゼルに親愛のキスも送ってある。人類文化学の研究を進めるべく、フィールドワークで方々を訪ね歩き研究を続けている。「特に何が専門か」と聞かれたら「吸血鬼」と答えることにしているが、怪異全般においてボクの興味を引き付けてやまない。呪い、悪魔、伝承……最近は東洋に存在するという妖怪なるものも気になって、研究対象に含めている。少しばかり遠すぎるのが残念だ。

ただ、学問というものは往々にして連鎖する。時として物理学が数学をつくり得るように、数学の根拠を求めて哲学に至るように、究めようとすればするほど、様々な分野に学びの手が伸びることになる。結果、吸血鬼研究から始まったボクの学問は、怪異といった直接的な繋がりをもっていそうな分野はもちろん、人類学、地理学、歴史学、資料学、果てには数学に自然科学と多岐に渡っていた。興味があることには自分から向かっていくのがボクの信条。どれも関心を持って学んでいるのだから、ボクの人生はこれでもかというほど彩りに満ちているだろう。

そんなボクのことをどこからか聞きつけたようで、この屋敷の主であるベルメール伯爵を通し、夫人から大学に連絡があった。何でも屋敷の地下から古文書が発見されたため、解読を依頼したいとのこと。ボクは二つ返事で了解する。古文書とはまた興味がそそられるじゃないか。ボクの知識がどれほど通用するかも試したい。そういった理由で、この屋敷に3週間ほど通い詰めていた。

古文書の解読には想像以上の労力を要した。言語の知識のみならず、筆者が持っていたであろう癖を見抜かなければ何と書かれているのかの判別も難しい。だからこそ、ボクはその作業に没頭していた。夢中になりすぎて「さすがにそろそろお帰りになられては?」と遠慮がちに提案されたときは少し焦った。ともあれ、作業そのものは着々と進み、解読作業は終盤に入っていた。今日は最後の段落の解読を終え、昨日引っかかった箇所との整合性を確かめ、現代語に起こし始めよう、と計画を立てる。あと3日もすれば全ての作業が終了し、夫人の了承を得られれば依頼完了……もうこの屋敷に来ることもなくなるだろう。そう思うと何だか、心の裏側の、ボクも今まで知らなかったような部分が柔らかく締め付けられた。

正門を抜けると長い石畳があり、屋敷の玄関に繋がっている。石畳の左右はその敷地の広さを存分に生かした見事な庭園となっていた。どうやら夫人がバラ好きのようで、アーチ状に育てられているのがあちらこちらに見える。植木も多く、貴族の庭園らしい佇まいだ。

植木に埋もれるように身を縮こませ、花壇の端に腰かける初老の男が見えた。クセの強い縮れ毛に厚ぼったい眼鏡をかけている。剪定の時に集めたらしい枝の一本で、地面に絵だか記号だかをかいていた。仮にも仕事中、さぞ変わり者として映っているに違いない。この季節はバラを含めて花のピークが過ぎるとはいえ、庭師はよほど暇を持て余しているようだ。

「おはよう」

ボクが挨拶をしても少し視線をくれる程度で、玄関の掃除をしているメイドも、心なしか彼と距離を置いているように見える。

――よし、行くか。

大きく息を吸い込み、落ち着くためにひとつ咳払いをしてから、ボクは屋敷へと入った。

 

 

 

 ボクの人生は怪異と、そして学問に彩られている。常に時間が足りないと思うくらいに充実していて、ましてや、更なる充実があるなんて思ってもみなかった。

「よう、フランツィスカ」

「あ……」

ボクの人生に、新たに添えられた彩り――それは、恋、だった。

「お、おはよう……いや、おはよう、ございます」

「そんなにかしこまらなくていいだろ? ほとんど同い年じゃないか」

「そういうわけには……その、あなたは公子では。このベルメール家の、貴族の」

 屋敷に入ったところで、ボクに声をかけたのはトビアス。ベルメール伯爵の長男にあたる人物であり、当然、次期当主になると言われている人物だった。乗馬の名手であり、先の大会でも優秀な成績を収めたという。

「気にすることじゃないさ。俺からすれば、その歳で博士号を持っている君の方が雲の上の存在だよ」

さらりとそんなことを言いながら、彼はチャーミングに笑った。肩書きにどうしたって注目がいくけれど、高慢な振る舞いをしない、人あたりのよい好青年だ。緊張が収まらず、上手く返事ができない。

「フランツィスカは、今日も古文書の解読?」

「そうだね……です。解読は、とても楽しいから」

「なら良かったよ。母さんも君をとても信頼しているみたいでさ、よろしく頼むよ」

 彼の言葉に、しきりに頷くことしかできなかった。自身が特別講師として招かれた講義であれば、何時間でも平気で話していられるのに、どうしてこうも上手くいかないのだろうか。人の心も含めて色々研究してきたはずなのだけれど、まだ分からないことも知らないことも多いらしい。

 要点を押さえて相手に伝えたり、発表したりするのは得意分野だが、コミュニケーションとなると苦手だ。興味一筋で生きてきたボクにとって、相手の意を汲み、自分の思いを織り交ぜて言葉を紡ぐというのは難しい。今のちぐはぐすぎる会話も、博士号を持つボクとしては恥ずかしい限りである。いや、でも、こうして「相手にどう思われるだろう」と考えることすら、これまでの人生では欠如していた視点じゃないか。新しい気付きをくれた彼に感謝は尽きない。うん、やはり、恋というのは人生を豊かにする。

 高揚感があったためか、ボクの解読作業はなおのこと捗った。あと3日もすればと終わるだろうと想定していたが、明日には完了してしまいそうだ。最終チェックをする頃には、既に日が傾いており、鮮やかな夕陽が庭の木々を照らしていた。

 ――明日、か。

 作業が早まった喜びと、不意に別れが早まった寂しさ。興味、関心、達成感。ボクの心がひとつにまとまってくれないのも初めてだ。確かな手ごたえと、乗り越えた満足感があるはずなのに、彼の顔を見られるのも明日が最後かと思うと何だか苦しい。こんな気持ちは味わったことがなかった。人を好きになるということは、こんなにも難しいことなのか。ボクもまだ知らないボクがいることにわくわくする。

 この依頼を無事に終わらせることができれば、アンリアルズと戦うための準備が整う。この国にいるアンリアルはもちろん、諸外国のアンリアルも討伐する予定だ。旅費も道具も、いくらあっても足りないだろう。怪異研究家であるボクがアンリアルと遭遇しないわけにはいかない。伝聞では分からないことがたくさんあるし、研究の基本は現地調査だ。怪異が生み出した最高傑作たるアンリアル。一体どうして生まれたのか、何から生まれたのか、何でできているのか、どのように動くか、見えるか、聞こえるか……調べたいことは山のようにあった。ああ、一秒でも早く相まみえたい!

「……ああ、そうだ」

 ボクはひとつの名案に辿り着いた。ボクは決めた。アンリアルズの討伐が終了し、この国に帰って来たら、もう一度この屋敷を訪ねよう。彼が得意な分野の話を聞かせてもらいながら、ボクの分野の話をしたい。研究成果の発表は、いつだってボクらの輝ける場なのだから。

 あの様子を見るに、彼は群論を用いてアーベル―ルフェニの定理にアプローチをかけていた。専門分野は数学だろうか? 物理学かもしれない。仮説が実証されたときのような喜びが全身に広がっていく、体温が高まっていくのを感じた。ボクが好きなものの話をして、ボクが好きだと伝えたら、彼は見たことのない笑顔を見せてくれるだろうか――クセの強い縮れ毛を揺らして、厚ぼったい眼鏡の奥にある、偏屈そうな瞳を細めて。

ユウキ_edited.png

Chapter 4 - Yuki

 ――えーっと、こういう時、どうすればいいんだっけ?

 怒涛の勢いで羅列されていく聞き慣れない単語たちに、ユウキは呆然としていた。

 

   ◆   ◆

 

 涼しい風が縁側から吹き込んでくる。夏の終わりを思わせる、乾いた風が六畳の和室を抜けていった。首元で短く切り揃えられた茶色い髪がほつれたのを、気怠そうに直す。風鈴が透き通った音色を奏でているが、もうそろそろ彼らの出番も終わりだろう。金魚の描かれた短冊が揺れているのをぼんやり眺め、これからの季節に思いを馳せていたところで……彼女の視界に、ものすごい形相をした老人が入り込んできた。

「こらユウキ! おぬしちゃんと聞いておるか!?」

 叱責されているというのに、ユウキと呼ばれた少女には全く響いていないようだ。面倒くさそうに頬杖をついて、何一つ書き物をしていない。反省するどころか、はあ、と重くため息を吐いて、怪訝そうな顔で老人を見上げていた。

 彼は父が長らく世話になっている、留学経験のある人物……と聞いている。英語の先生として紹介された人物だった。こうして短期集中で英語の勉強を進めているわけなのだが、ユウキの気持ちはまったく勉強に向いてこない。

「だってー。こんなこと何の役にも立たないと思うんだけど。言葉の勉強なんて、別にいいって」

「またおぬしはそんなことを……! よいか、今から向かうのは欧州、日本語を話せる人間はおらぬ! 宿泊も買い物も、単なる会話すらままならぬというのに、どう仕事をこなすつもりだ」

 その説得もまた、初日から毎日聞かされているものだ。「はいはい」と流し、一応、筆記具を手に取ってみせた。

「アンリアルを倒すだけじゃん。早く出発したいのに……」

 ユウキは日本でも有数の霊術師家系に産まれた娘だった。幼い頃からその才能を開花させ、父の元で鍛練を積み、柳上川流除霊術の第一位後継者として正式に認められている。いざ当主となる前に彼女に課せられた仕事……それが、現在欧州にて猛威を奮う特別な怪異――アンリアルの討伐だった。友好国フランスからの要請を受け、この日の本を背負って異国の地に馳せ参じる。

 ユウキにとって、この参戦は願ってもないことだ。柳上川流除霊術は、日本においてその地位を確かなものとしているが、世界的な知名度でいえば皆無に等しいだろう。そのくらいこの世の中は広いのだと、父によく言われていた。

 ――私が柳上川流でアンリアルを倒せば、きっと世界にもその名が轟くだろう。

 霊術師としての名誉、家の格式、それらの全てを手に入れる絶好の機会。ユウキは父親から受け継いだ柳上川流に、絶対的な自信があった。今すぐにでもそのアンリアルとやらを屠ってやりたい。

 ――なのに。

 未だ、ユウキは六畳のやや狭い和室に、先生と二人っきりで向かい合って、必要とも思えない英語の勉強をしている。一秒でも早く出発したい。開け放たれたこの部屋を、牢獄のようにさえ感じていた。

「ほれ、繰り返せ。『いま何時ですか。ほったいも、いじったな』」

「――ほったいも、いじったな」

 

   ◆   ◆

 

 それから約2か月。ユウキは念願のフランスに辿り着いた。都市部だということを差し引いても、立派な街並みが印象的だ。自分の故郷に、あそこまで大きな石造りの建物はあっただろうか。東京に出てもないかもしれない。なるほど、ここのところしきりに「近代化」だの言われているが、こういうことなのか。車がしきりに往来する太い道を横目に、ユウキはあちらこちらに視線を飛ばしながら歩いた。

「っと、いけない、こんなことをしている場合じゃない!」

自分の目的は観光ではない。果たさなければならない使命があるのだ。国が手配してくれた宿に駆け足で向かう。先生にかなり心配されていた英語も、宿の受付では――満足にやりとりできていたとは言えないものの――特に問題なかった。すぐさま装束を整え、目当てのアンリアルを探しに出発する。

「ん……?」

 怪異と身近に接してきたこともあり、ユウキはその気配に敏感だった。街の中を巡る水路……一見穏やかに、何の変哲もなく流れていく水だが、ユウキは確かにただならぬものを感じた。

「こっちか……」

 流れに逆らうようにしながら、水路脇の道を急ぐ。徐々に水路は細くなっていき、家の間へと消えていった。しかし、流れが消えたということはないはずだ。この家の裏側へ行けそうな道を探す。

「あった!」

 回り込むように細い通路を通り、恐らく裏路地であろう場所に飛び出した瞬間、視界の端を閃光が迸った。

「えっ」

 金属同士が打ち合ったときのような鈍い音が響く。そちらを見れば、巨大な怪物が前のめりになっていた。ユウキの背丈を優に越え、黒い甲冑に身を包んだ、偉丈夫の出で立ち。それが人でないことは、青白く光る角と爪を見れば分かった。

――あれがガルグイユか……!

本能的な異質さと強大さを感じたためか、ユウキの肌がぞわりと粟立つ。日本でも怪異を蒐集した経験はあったが、それと比較しても随分禍々しい。人の持つ負の感情が集積し、実体化すると共に、魂を持ったのだろうか。

 閃光を背中に食らったガルグイユだったが、すぐに立て直す。そして、爪による連撃を軽やかな身のこなしで回避している人物がいることに気が付いた。見たこともない衣装を身に着け、大振りの杖を扱う彼女が、先ほど攻撃をした張本人だろう。確かこちらでは……「怪異専門家」と呼ばれているのだったか。

あの杖が彼女の得物で、閃光を放出することによって、アンリアルの魂を削っているとみて間違いない。全て削り切ることができれば、恐らく消滅する。ならば、今までユウキが相手取ってきた日本の悪霊たちと勝手は同じだ。外套に忍ばせた刀を握り直す。

 ――しかし、どうしようかな……飛びこんでみる?

 倒す方法は分かったが、問題はどのようにこの戦いに入っていくのか、だ。自分と同じ流派の霊術師が戦っていたのなら、躊躇いなく助太刀に入るだろう。しかしあの女性はあくまでも同業者に過ぎず、共闘する相手かといえばそうではない。仮に「助太刀いたす」と割り込んでガルグイユを討ち取ったとしても、それでは獲物の横取りだ。競うことは多々あれど、元より和を尊ぶのがユウキの祖国。国の代表として来ているのに、その精神に反する行いをするなど言語道断だ。

 かといって、このまま指をくわえて見ているわけにもいかない。柳上川流除霊術の誇りを世に知らしめるために、ここフランスまで渡ってきたのだから。「お先にどうぞ」と譲る選択肢はなかった。最悪の場合、彼女のみが討伐したという結果に、「東洋から来た霊術師は、アンリアルに恐れおののき手も足も出なかった」など言われてしまうかもしれない。恥ずかしくて祖国に顔向けできなくなってしまうではないか。

 ――いや、ほんとにどうしよう……!

 そんな風に考えていたとき、アンリアルと戦っていた女性と目が合った。大きく見開かれた彼女の目。特に争っているわけでもないのに、何となく「しまった」と思い半身に構える。女性は全速力でこちらに駆け寄ってきた。ひょっとすると、彼女もまたユウキが同業者であることに気付いたのかもしれない。「共に戦ってほしい」と言われたのなら、それはそれで仕方がない。名誉も報酬も山分けになるのは惜しいが、ある意味自然なかたちで――

「ボク、どうしてこんなところにいるの?」

「……?」

 近くまで来ると分かるのだが、彼女はユウキより随分背が高い。踵のある靴を履いているせいもあるかもしれない。軽く膝を折るようにして視線を揃えた彼女は、柔らかではあるものの、勢いのある声でユウキに語りかけた。「Little Boy」と呼びかけられたような気がする。「Boy」――ボーイ? あの先生いわく、男の子であることを意味する単語だったはずだ。やや混乱し、状況を整理しようと押し黙る。

「お母さんとはぐれちゃったの?」

「……」

 口調が速くなっていく。それに比例して、ユウキの耳はほとんどの単語を素通りさせてしまっていた。

「ここは危ないから今すぐに逃げなさい!」

何やら必死に話してくれていることは分かるのだが、何を言われているかが理解できないため、何を返せばいいかも分からなかった。表通りに抜ける路地を示しているあたり、逃げろと促しているのだろうか。彼女はもしかすると、ユウキ自身も戦えるということに気付いていないのかもしれない。

――えーっと、こういう時、どうすればいいんだっけ?

何が正解だろうか。「私は“怪異専門家”です。私も戦います」が良いだろうか。しかし怪異専門家は英語で何と言えばいいのだろう。「戦う」は何だっただろうか。必死に思い出してみるが、ユウキの記憶から引き出されるのは、情けなくも先生のしかめっ面に、縁側から吹き抜けていくそよ風のみだった。

――ああ! こんなことならもっとちゃんと英語の勉強しておくんだった!

 

「……っ!」

 しかし、次の瞬間、ユウキは見た。女性の背後からしのび寄り、自分たちを見下ろすガルグイユの姿を。近づいてなおのこと分かる、その身体を成しているであろう、夥しい魂の数。肌のざわめきで感じる、恨み、妬み、殺意といった負の感情。本能的に、自分の……自分たちの敵であると察する。また、自分が倒さねばならない存在だとも。一手遅れて女性も気付き、ユウキを庇うように覆いかぶさった。

 ガルグイユの鋭い爪が迫る。容易く自分たちの身体を貫くであろう凶器を冷静に見つめ、ユウキは間合いをはかった。ガルグイユが確実にこちらを仕留められるのであれば、それは即ち、ユウキの刃が届くことも意味しているのだ。

「オン マリシエイ ソワカ」

 ユウキが呟くと、刀身にこれまで集めてきた怪異の力が集積されていく。庇うようにした人物が力強く身を起こすとは思いもしなかったのだろう、女性は驚いている様子だ。外套を脱ぎ捨てるとともにその脇をすり抜け、ガルグイユへと接近する。

「はっ!」

 得物の刃渡りは短くとも、怪異の力を宿した今、それは関係のないことだ。清らかな除霊の力を有した刀を下から振るい上げると、装甲に鈍く食い込む音がした。

 ――浅いか!

 爪の一撃を防ぐことには成功したが、ガルグイユはすぐに追撃の炎を噴き出した。着地すると同時に、軸足に体重を預けながら半回転し、降り注ぐ炎をやり過ごす。ちらりと目をやるが、先ほどの女性も炎からの回避はできている様子だった。余計な心配をする必要はないのだろう。目の前の敵に集中しなければ。

 怪異の力を集積した刀による一振りだったが、致命傷には程遠いようだ。生ぬるい攻撃では意味がない。確固たる一撃が必要だ。

「ふーっ……降魔風塵」

 切迫する状況だからこそ、その心を鎮め、集中力を束ねていく。ただただ目の前の存在を滅することだけを考えた果てに、ユウキは刀を両手で握り直した。一層強く、鋭く、怪異の力が刀身に宿る。高密度の力は刃から溢れ出んばかりで、装束や周辺の環境にまで影響を及ぼし始めた。背後に浮かぶ、鬼とも獣ともとれる姿をした異形の影が吠える。

水音さえも聞こえない。ガルグイユの太い腕が揺らめくのを視認し、ユウキは再度駆けた。攻撃が当たるという瞬間、彼女自身も地面を強く踏み込み、その眼前まで飛び上がる。爪の先が数本の髪だけを攫っていった。

「はあっ!」

 上段に刀を構え直し、躊躇わず振り下ろした。何か硬く結ばれたものを切り裂いていくかのような、岩を砕いていくかのような、味わったことのない感触が刀を伝い、脳を揺さぶる。それでも決して柄を離すことはせず、ガルグイユを袈裟掛けに斬り下ろした。

「……」

 さすがにこの一撃は効いたようで、ガルグイユは追撃をしてこない。すぐ側の水路に潜り込むようにして姿を消した。

「っ……はぁ……はぁ……」

 さすがに手強い相手だった。窮地を脱したことへの安堵感を覚えると共に、倒しきれなかった悔しさに顔をしかめる。

「ちっ、仕留めそこなった」

 呼吸を整えるユウキのもとに、先ほど自分を庇った女性が駆け寄ってきた。

「あなたは一体……!? どうしてガルグイユを……」

「私はユウキ。あんたと同じで、アンリアルズを倒しに来た」

 彼女は同業者に過ぎない。だからこそ、敵のいない今、競う必要もない。勘違いをしていたのだろうが、いずれにせよ、命を懸けてまで自分を庇ってくれたのだ。その事実に変わりはなく、彼女をぞんざいにあしらうようなことがあってはならない。

 が、どうしても、ただひとつだけ、言っておかなければならないことがあった。

「それから、私はボーイじゃない! ガールだ!」

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